平安時代

794年に京都の平安京へ都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約400年を 平安時代 と呼んでいる。飛鳥時代、奈良時代が100年前後だったことを考えるとすごく長いね。
桓武天皇の政治
この時代は貴族の勢力争いや僧の政治への口出しもあって、政治が乱れた。 桓武天皇 は都を 長岡京 (784年)、平安京 (794年)と移すことで(両方とも今の京都府だよ)、奈良の仏教勢力をおさえようとしたんだ。
都を平安京に移した桓武天皇は、律令政治の立て直しをはかったよ。 まず、農民の負担をへらすために、兵役を少なくし、雑徭の日数を減らした。また、班田収授法についても、口分田の支給を6年から12年にのばしたんだ。 😌
また、当時の東北地方は朝廷の力が及んででおらず、言葉や生活の異なる 蝦夷 が住んでいた。そこで 坂上田村麻呂 を 征夷大将軍 として遠征させ、抵抗する蝦夷の首長アテルイとその軍を降伏させたんだ。
このあと日本の歴史にずっと現れるこの「征夷大将軍」、もともと東の「夷」を征討する将軍としてついた名前なんだね。
平安仏教
奈良の仏教は力を持ちすぎてしまって、当時の天皇がお坊さんを天皇にしようとしたくらいだったんだ。桓武天皇これはいけないと考えて、遣唐使から帰った最澄・空海が持ち帰った、新しい仏教を保護したんだ。
- 最澄贈り名は 伝教大師 という。比叡山(滋賀県/京都府)に延暦寺を建てて 天台宗 を広めた。
- 空海贈り名は 弘法大師 という。高野山(和歌山県)に金剛峯寺を建てて 真言宗 を広めた。
これらの仏教の特徴は山奥で厳しい修行を行うこと。儀式や祈りをささげ(加持祈祷)、密教と呼ばれる秘密の教えをもっていた。神仏の恵みが現世でもたらされるという考え(現世利益)が尊ばれ、朝廷や貴族に広がっていったんだ。
遣唐使の苦労をともにし、帰国後も交流があった日本仏教界二大開祖の二人だけど、残念ながらいろいろあって晩年は絶交したまま終わってしまった。なかなかうまくいかないものです…😒😞
摂関政治
やがて貴族の 藤原氏 が力を持ち始める。大化の改新のときの 中臣鎌足(藤原鎌足)から始まった一族だ。藤原氏は、娘を天皇の后とし、生まれた子をまた天皇とすることで、自分たちの権力を広げていったんだ。他の貴族たちは追い出されていった。
その藤原氏が行ったのは 摂関政治 だ。天皇が幼いときは 摂政 として助け、大人になったら 関白 として実際の政治をとりしきる。摂政と関白を合わせて摂関政治。このころは藤原氏の天下だったんだね。😏
全盛期は11世紀前半、藤原道長、藤原頼通 の親子の頃。藤原氏が政治的にも高い位を独占していた。 また、多くの 荘園(開墾された田んぼ)が寄進された。寄進とは有力なお寺や貴族に寄付すること。税が免除されるなどの特典があったんだ。
地方の様子もみておこう。この時期地方では 国司(中央からのお役人)と 領主(その土地の権力者)の権力争いがおきていた。国司は本来の仕事の税集めだけでなく、さまざまな権利をふりかざして自分の収入を増やそうとした。領主はそれに対抗して荘園を寄進することで、自分の権利を守ろうとしたんだ。
国風文化
長い平安時代、アジアのご近所さんにも動きがあったよ。 中国では唐が滅亡し、混乱の後、宋 が中国を統一した(960年)。 朝鮮半島では新羅が滅亡し、高麗 が建国された(936年)。長い間お世話になった遣唐使だけど、唐が衰退したその晩年に、菅原道真 らの提案で廃止されていたんだ(894年)。 宋や高麗とは国交をきずき、博多(福岡県)などを拠点に 日宋貿易 が行われたよ。
唐の文化の影響もうすれ、日本の文化や生活感情にあった新しい文化が生まれた。それが 国風文化 だよ。代表的なものをみてみよう。
- 寝殿造上品かつ繊細なつくりの住居。当時の貴族が住んでいた。
- かな文字この時期から漢字をもとに作られたひらがな、カタカナが広く使われるようになり、かな文字をつかった文学がたくさんうまれた。ホント大発明だ! 😃
- 源氏物語紫式部 による長編小説。主人公光源氏を通して、貴族社会の恋愛や人生の栄光・没落などを描いた。平安の文学を代表する傑作だ。
- 枕草子清少納言 による随筆(心に思ったこと、見聞きしたものを書いたもの。今でいうエッセイかな)。「春はあけぼの(春は明け方ごろがいいわよね😌)」で始まるあれだ。
- 大和絵日本的な絵画。仏教絵画や風景画・人物画が残っている。源氏物語絵巻 などの 絵巻物 もあるよ。
- 古今和歌集紀貫之らによってまとめられた、当時の和歌集だ。
浄土信仰
この時代は 浄土信仰 が流行った。 ひらたく言うと死んだら極楽浄土に生まれ変わりたいと願う思想だ。
当時は社会が乱れ、災害もひどく、人々はいつ死んでもおかしくないと不安な気持ちだったんだ。そんな中で、阿弥陀仏を思い描いて 念仏 を唱えることで、誰でも極楽浄土へ行けるという教えが広まったんだ。浄土信仰を広めた人物として、往生要集をしるした 源信、聖として民衆に説いてまわった 空也 の名前を覚えておこう。
また、浄土信仰のよりどころとして、阿弥陀如来を本尊とした 阿弥陀堂 が建てられた。代表的なものとしては、藤原頼通によって京都に建てられた 平等院鳳凰堂 がある。10円玉に描かれているあの建物だよ。また、奥州藤原氏の 中尊寺金色堂 も有名なのでおさえておこう。こっちは岩手県にあるよ。
注意点だけど、浄土信仰は浄土宗、浄土真宗という宗派とは別物だよ、気をつけてね(この2つが出てくるのはこのあとの鎌倉時代)。
武士のおこり
平安時代もいよいよ終盤。戦がたくさんおきるぞ。
開墾した荘園を守るために、地方の役人や農民たちが武装することで、武士 があらわれ始めた。当時の有力な武士団としては、桓武天皇を祖とする桓武平氏や、清和天皇などを祖とする清和源氏がいる。
- 平将門の乱939年、関東で国司をつとめていた平将門が、平氏内でのイザコザの末、自らを天皇と名乗ってっておこした乱。
- 藤原純友の乱939年、瀬戸内海で海賊を鎮圧してた藤原純友が、自ら海賊のようになって各地を襲った。平将門の乱を鎮めた朝廷軍がかけつけておさえた。
相次ぐ戦乱に朝廷も真っ青だ。😨 武士団がおこした戦を、別の武士団がおさえる。 武士が無視できないほど大きな存在となってきた。
このころ藤原氏による摂関政治にも衰えがみえはじめる。きっかけとなったのは 後三条天皇 だ。藤原氏と親戚関係がうすかったため、藤原氏の支配がおよばなくなったんだ。荘園の整理などを行って天皇中心の国家をとりもどそうとした。
続く 白河天皇 は、天皇の位をゆずって 上皇 となったあとも政治を行った。この政治を 院政 と呼ぶよ。 院(上皇が住む場所)で 政治を行ったから院政。😉
当時朝廷を悩ませていたのは大寺院による強訴。延暦寺や興福寺などの有力な寺院が 僧兵 をそろえて、いろいろな要求をおし通そうとした。武力でおどしたんだね。このときも朝廷は武士の力を借りておさえたんだ。
つづいて東北の陸奥国でも争いがおこった。
- 前九年の役1051年、東北地方の豪族安倍氏の反乱を源頼義がおさめた。
- 後三年の役1083年、安倍氏が滅んだあとをついだ清原氏の内紛(イザコザ)を、源義家と藤原清衡がおさめた。
これらの内乱をうまくおさえた源氏は東日本に勢力を持ち、藤原清衡を祖とする奥州藤原氏は3代にわたって平泉(岩手県)を中心に独立国のような勢力をもつようになったんだ。
武士の時代がきたことを決定づけるように戦が続く。
- 保元の乱1156年、天皇家の跡継ぎあらそいをきっかけに、藤原氏、平氏・源氏の武力を巻き込んだ大がかりな内乱がおきた。武士の地位がどんどんあがってく。
- 平治の乱1159年、保元の乱で力をつけた 平清盛 らに対して、源義朝が挙兵した。結果は平氏の勝利。平清盛は太政大臣となり、一族で高い地位を独占したよ。藤原氏スタイルで権力をのばそうとしたんだ。
- 源平の争乱強引に権力をのばす平清盛に不満をもった武士たちが相次いで挙兵。その中には 源義仲(木曽義仲)や 源頼朝 がいた。1185年、壇ノ浦の戦い(山口県)にて平氏は滅亡したんだ。
長かった平安時代もおわり。 武士が力を持つ鎌倉時代に入っていくよ。


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