鎌倉時代
1185年に鎌倉幕府が開かれて、 1333年に次の室町幕府にバトンタッチするまでの、 約140年が 鎌倉時代 だ。⛩
鎌倉幕府
①鎌倉幕府の成立
1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅んだときに活躍したのが、源頼朝 だ。朝廷は1192年に頼朝を東国武士の棟梁(トップ)とみとめ、征夷大将軍の位を与えた。頼朝のはたらきをみてみよう。
- 守護・地頭国ごとに 守護、荘園や公領ごとに 地頭 という役人をおいて管理した。
- 鎌倉幕府鎌倉(神奈川県)に政治の中心となる 幕府 をおいた。「幕府」はもともとは、戦で将軍がいる陣地、幕がはられた本部のことだよ。
征夷大将軍というのはその時代の大将だ。 「朝廷に任命された征夷大将軍が、幕府を開く(またはうけつぐ)」というのが、江戸時代のおわりまで続くパターンだよ。
②封建制度
封建制度 とは、土地を仲立ちした主従関係のこと。上の人が土地を貸して、下の人は土地を管理して税をおさめる。 将軍と武士は 御恩と奉公 という主従関係によって結ばれて、封建制度ができあがっていったよ。
- 御恩将軍が 御家人(将軍と主従関係を結んだ武士)に領地を与える。
- 奉公御家人は将軍に何かあったらかけつける。合言葉は「いざ鎌倉」だ。
③執権政治
源頼朝がなくなったあと、 いつものようにドロドロの権力争いがあって、 なんと源氏は3代で滅んでしまう。 あとをついだのは頼朝の妻、北条政子の一族、北条氏だ。
- 執権政治北条氏は執権という重要な役職を何代にもわたって独占することで、権力をかためたんだ。
- 承久の乱1221年、後鳥羽上皇が源氏が滅んだのをみはからって挙兵。朝廷に権力をとりもどそうとしたんだね。でも失敗。鎌倉幕府の全国支配がすすむことになった。
- 六波羅探題承久の乱ののち、京都におかれた機関。目的は朝廷の監視 👀 と西国の御家人をまとめることだ。
- 御成敗式目貞永式目 ともいう。1232年、北条泰時によってつくられた。武士や公家の裁判の目安をきめた。
鎌倉時代の生活
武士は普段は農業を営み、守護や地頭として領地や荘園を管理していたよ。一族をまとめるトップは 惣領 といい、大きな権力をもっていた。また、いつ戦が始まってもいいように、ひごろから 弓馬などの武芸を訓練していた。🏹🐎
農民は朝廷からくる国司と、幕府からくる地頭の二重支配を受けていて大変だった(時代の変わり目あるある)。でもね、農業自体は発達したよ。まず、二毛作 が始まった。メインとしては米をつくって、あいているときに麦を作るんだ。また、肥料として草木灰をまき、牛馬をつかって田畑を耕すことも始めた。生産力アップだ。🐮🐴
また農村には、農具を作る鍛冶屋、衣類の染物をする紺屋もあらわれた。⚒👘
商業も発達した。寺社の門前で 定期市 がひらかれ、宋から輸入した 銅銭 も使われたんだ。⛩
鎌倉時代の宗教
人類の歴史は宗教とともにある。 飢えや病気、戦で親しい人たちが亡くなっていく中、 人びとの心はなにかにすがっていないと、切なくてもたないんだね。 この時代には天台宗(延暦寺)のお坊さんが、農民にもわかりやすく教えを説いたんだ。
- 浄土宗法然が説いた。南無阿弥陀仏と念仏を唱えて阿弥陀仏にすがる教えだ。
- 浄土真宗親鸞が説いた。阿弥陀仏を信じることで救われるという教え。
- 時宗一遍が説いた。踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」が特徴だ。
- 日蓮宗法華宗 ともいう。日蓮が説いた。南無妙法蓮華経と唱えると仏に救われるという教え。
お気づきのように、これらの宗教は念仏がキーワード。当時の農民は毎日のように唱えていたんだろうね。🙏
これらとは別に、坐禅を組むことで悟りを開く 禅宗 もある。こちらは自分の力で切り開くこと(自力本願)が特徴で、武士に広まった。
- 臨済宗栄西が説いた。禅問答というやり取りをおこなって悟りに近づく(看話禅)。幕府や上級武士のお気に入り。
- 曹洞宗道元が説いた。こちらはひたすら坐禅にてっする(黙照禅)。権力をきらって越前(福井県)に道場を開くなどして、地方の武士・農民に広がった。
臨済宗はの将軍などの権力者が帰依(すぐれたものにすがること)し、幕府にも保護されたんだよ。
鎌倉時代の文化
鎌倉文化 の特徴は 質素で力強い気風 だ。 平安時代の上流社会(公家など)の文化が、 鎌倉時代に入ってできた宗教や商業の発達とともに、 武士や農民の間に広がっていったんだ。
まずは文学をみてみよう。
- 平家物語軍記物と呼ばれるジャンルだ。琵琶法師と呼ばれる盲目のお坊さんが、琵琶を弾きながら広めたという。内容は源平の争乱。「祇園精舎の鐘の声」の出だしが有名。🔔
- 徒然草吉田兼好による随筆。「つれづれなるままに(思いつくままに…書くよ)」の出だしの通り、様々な話題が書かれている。
- 方丈記鴨長明による随筆。「ゆく川の流れは絶えずしてしかも本の水にあらず(川の流れはずっと続くけど、同じ水じゃないんだな)」ではじまる。
- 新古今和歌集藤原定家らによってまとめられた和歌集。
「枕草子」「徒然草」「方丈記」は三大随筆とよばれることもある(作者全部おぼえているひとはすごい!)。
続いて建築・彫刻・絵画をみてみよう。
- 東大寺南大門天竺様とよばれる建築様式。
- 円覚寺舎利殿神奈川県にある寺院。
- 南大門金剛力士像東大寺にある。運慶・快慶らの作。
- 似絵大和絵の画風の肖像画のこと。みんなも源頼朝のものを見たことがあるんじゃないかな。
また、この時期には宋から朱子学という学問が入ってきたことや、北条実時によって金沢文庫(神奈川県) という武家の図書館が建てられたこともおぼえておこう。
元寇
お隣の中国大陸で大きな変化がおこる。
- モンゴル帝国13世紀のはじめに チンギス・ハン がモンゴル民族を統一し、子孫がユーラシア大陸にモンゴル帝国という大帝国をつくった。
- 元 フビライ・ハン が支配していた中国大陸は国号を元とし、高麗をしたがえて宋を滅ぼしたんだ。
モンゴル帝国の領土は東ヨーロッパにまでおよんで、 史上最大クラスの大帝国だった。もちろん日本もターゲットになり、 執権北条時宗のとき、 元の軍が北九州に2度襲来したんだ。 これを 元寇 という。
- 文永の役1274年、元の軍が対馬・壱岐を攻め、博多湾に上陸した。火器( てつはう とよばれる、火薬をつめた鉄の玉)や 集団戦法(隊をくんでドラやたいこの合図でせめる)になやまされた。日本側は御家人(武士)がむかえうち、やがて暴風雨がやってきて元の軍は帰っていった。
- 弘安の役1281年、ふたたび元の軍がやってきた。今度は10万以上の大軍だ。1回目の戦いのあとに築いておいた石塁(高さ2,3m、長さ20kmにもおよぶ石のカベ)も役立って、日本側は2ヶ月にわたりふんばった。そしてまた暴風雨がやってきて元の軍は帰っていったんだ。
このときの元をしりぞけた暴風雨は神風とよばれるよ。 御家人は日本を守るためにふんばったんだけど、戦いの傷は大きかった。お金が足りなくなってしまって、領地を売るものもでていたんだ。 でも、幕府は御家人に、勝利のごほうびである恩賞が出せない。外国が攻めてきて追い払った戦いだから、あたらしくゲットした土地もなく、渡すものがないんだね。💸😱
領地を分割相続していたこともあって、 御家人はどんどん窮乏していった。こんな事情で、幕府への不満がたかまっていったんだ。
そんな中、後醍醐天皇 の倒幕運動に、足利尊氏、新田義貞、楠木正成らの有力御家人が加わって、新田義貞の軍の攻められた鎌倉幕府は1333年に滅亡してしまった。


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問題 | 採点 | 問題 | 採点 |
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第 1 問 | ○ × | 第 6 問 | ○ × |
第 2 問 | ○ × | 第 7 問 | ○ × |
第 3 問 | ○ × | 第 8 問 | ○ × |
第 4 問 | ○ × | 第 9 問 | ○ × |
第 5 問 | ○ × | 第 10 問 | ○ × |
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